株式会社 田村設計

Kazの設計ざんまい

田村 和雄

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愛知県常滑市・東京都銀座在住

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  • 05/14(金)48年来の友人

    一昨日は実に感慨深い夜になった
    ・・・再会して1秒で・・・48年前に戻った!
    シロー君とハセ君
    高専1年生時に知り合い、仲良くなった・・・15才・・・実に48年前!
    当時日本は高度成長の真っ只中
    東京オリンピックの2年前だった
    高専は、産業界の要請で即戦力の中堅技術者の育成目的で創られ
    5年間の一貫教育の全寮制
    電気・機械・建築の3学科・・・総勢120名の小さな学校のスタートだった
    (土木もあった気もするが・・・?)
    制度が急に決まったせいか、
    校舎も寮も既存建物を改造した仮設建物で
    校舎はトヨタの“上挙母”の工場敷地内、
    寮は豊田市駅前の、市の公共施設の改装で、何れも古い(味わい深い)木造建物だった
    この寮がスグレモノで、
    畳の20畳ほどの大部屋に10名ほどの雑魚寝状態
    毎日自分で布団を敷き・畳む生活
    ・・・床が畳みのせいか?夜は時々プロレス大会だった
    お腹が空くと、門限後門を乗り越えて買ってきたコロッケは美味しかった
    15才の少年達が家を離れ・・・文字通り寝食・勉強を一緒にしたのである
    部屋には登山好きの須賀太郎学長さんが命名し、白馬・穂高等・・・山の名前が付けられていた
    登山好きな先生が多く、先生も全員参加して“御岳”にも上った(3合目から)
    ・・・英語の先生が足をつって・・・皆で担いで下山した(笑)
    当時私は数学に興味が湧き、
    1年生の日曜日に帰省せず、終日“因数分解”にはまっていた事を思い出す
    ・・・ちゃぶ台のような折り畳み式の座卓が勉強机だった
    寮のお風呂が故障中に
    誰かが銭湯で“インキンタムシ”の病気を貰い、お陰でほとんど全員にうつり、寮の屋上に皆で布団を敷き、(パンツを脱いで)患部を日光浴(殺菌)した事も思い出深い・・・猛烈に痒かった
    そんな青春ドラマのような仮設施設での共同生活の一年が終り、
    春休みが済んで、鉄筋コンクリートの新校舎・新寮舎が完成し2年生を迎えたら
    シロー君は居なかった
    ・・・高専の学校制度の将来に疑問を感じたようで、私学の進学校に編入してしまった
    私には大きなショックだった
    友人が去った事より・・・15~6の少年で、
    将来を見据えて、人生の軌道修正をする人が居る事のショックだった
    以来・・・私にも・・・悩みが芽生えた
    そうしながらも・・・新校舎で後輩も出来、賑やかになり、グランド・バスケのコートも完成し
    一年間出来なかったたスポーツに熱中し出した
    当時走る事が好きで、グランドが寮の目の前に有ったせいもあり・・・日曜日に一人で・・・グランドを25周(1万メートル)走って事を思い出す
    ・・・思いっきり走っても・・・何の息切れもしなかったほどタフだった・・・結構早かった気もする・・・私の健康体はこの頃作られたと思う
    当時私は、“アジアの鉄人”・十種競技の楊伝広(ヨウデンコウ)と・・・根拠も無くオリンピックに憧れていた
    シロー君ショックも勉強・スポーツに夢中になった事もあって徐々に和らぎ出したが・・・
    3年になったら・・・ハセ君が・・・学校休みがちになった
    下宿を訪ねると・・・暗い部屋で異様な雰囲気で勉強していた
    尋ねると・・・彼は・・・“オレ東大へ行く”と語った
    彼も人生の軌道修正の決心をしたようだった
    ・・・受験勉強を経験せず、世情から取り残されたような三河の片田舎の地からの東大宣言!
    ハセ君は独学の受験勉強と高専の2足のワラジを履きながら・・・
    (大学受験資格が得られる)3年終了で中退し、東大を受験し・・・一浪人後・・・見事文科三類合格!
    シロー君ショックにハセ君ショックが拍車を掛けた
    ・・・ハセ君続こう!と・・・私も3年後半から密かに参考書を購入し受験勉強の独学を始め出した・・・
    建築の勉強をする内に・・・“丹下健三”氏に憧れた事も大きな動機だった
    ・・・香川県庁舎・代々木体育館・東京都庁・・・の美しい写真集に感動し、大学で建築を本気でやる決心をし・・・
    私も卒業を待たず・・・4年生の10月中途退学し・・・受験勉強へ
    こうしてシロー君と1年間、ハセ君と3年間、の高専時代は終り、
    それぞれの道を歩み・・・年賀状の交換はあれ・・・45年!ほど経ってハセ君の提案で再会し・・・一昨日で3回目の出会い・・・
    先日の食事中に・・・
    (エリートコースを歩み続けた)ハセ君から・・・“自分の原点は高専時代だった”
    と聞き、(私は東大時代と思っていたので・・・)意外だったが・・・嬉しかった!
    時代・政策のボタンの掛け違いが生んだお互いの中退だったが・・・シロー君もハセ君も私も・・・高専時代を、誇りを持って思い出すのは、
    時代と
    青春と
    先生方の“熱”だった気がする・・・
    45年ぶりでも、私は彼らを“親友”と思うのは・・・
    15才の少年時代に
    豊田の片田舎で、
    一緒に学び
    寝食を共にした寮生活
    そして、将来を悩み・・・中退
    の原点を共有しあった仲間だったせいかも知れない
    16~18才の少年の頃、自分の将来・人生悩み続け、
    自分の人生を、
    自分の判断・価値観での決断・行動(中退)がその後の人生を決めた気がする
    彼らに会って
    48年間閉じこもっていた思い出が、突然記憶の奥から流れ出してきた・・・
    須賀学長の人徳のなのか・・・意気に燃えた若く・優秀な多くの先生が集まり、先生も生徒も勉学に燃えていた
    (受験では無く)純粋に学問に燃えていた
    難問があると競うように解き合い、勉強が面白くて仕方ない日々を過ごした
    ・・・皆が熱かった(時代も熱かった)
    授業は1日6時間が基本で、週に2日は7時間!授業
    勿論土曜日も授業と言うハードな日々だった
    (ニコン出身で)著名な物理学者であった須賀太郎学長から
    直々に受けた授業も感激だった・・・鏡に映る姿が何故反転しないのかを解り易く教えて頂いた
    ・・・優秀な先生ほど難しい事を平易に語る・・・
    化学の岩田先生の授業も面白かった
    興味が湧き難い化学を・・・
    本当に楽しそうに教える先生の姿に引き込まれた授業だった・・・
    “(分子記号の)似た物同士は溶け合う”
    の言葉を今でも覚えている
    物理の石岡先生は
    井上靖氏の“氷壁”の主人公の実兄で、実弟の死がナイロンザイルの切断事故だった事を証明した本人だった
    (後に名工大教授に転身した)数学の三浦先生も忘れ難い人だった
    実に楽しそうに語る授業だった
    (私の数学好きは三浦先生の影響)
    教科書に無い“記号論理学”なる授業は記憶に残る・・・言葉を記号に置き換えて、数学で説こうと言う目が点の授業だった
    “行列”が面白く、
    先生にお願いして米の教科書を購入した事も懐かしい
    当時数学の授業が多く“数学学科”と思うほどの内容・レベルだった
    3年時には
    微分方程式・ベクトルの微積分・フーリエ変換まで進んだ・・・入り直した大学の教養部以上のレベルだった
    浪人時の模擬試験の問題を微分方程式で解いて・・・答は合っているが・・・解き方が高校で教えていない手法との見解で×だった
    たしか・・・微分方程式に・・・“一般解と特殊解”の2つ存在する事が衝撃的だった・・・1つの真理を追うべく数学に答えが2つ有るとは・・・
    以降私は・・・“世の中には、真理が2つ存在する”と思うようになった
    国語の授業中、朗読の順番時に、
    “おつうとよひょう”(鶴の恩返し)を一人芝居の如く熱読し出した演劇部のキャプテンは・・・一人で読み切ってしまった
    ・・・笑いをこらえていた小池先生の顔が目に浮かぶ・・・私は彼の“真迫の名演技”に逆毛が立った・・・
    デトロイトの交換学生に・・・英語が通じなかった英語の先生も懐かしい(笑)
    ハンドボールの名選手だった体育の寺沢先生も懐かしい
    ・・・2年の授業は1年間ズーッと“ラグビー”だった
    (今は撤去されたが)名古屋駅前の男性裸像の銅像は寺沢先生がモデルだったそうだ
    バスケの試合中に・・・“相手も苦しい!試合中に苦しい顔をするな!!”
    と叱咤された言葉は今でも心に残る
    寮で同室だった陸上部の“三輪野君“に頼まれて、日曜日に3校対抗戦に応援参加し、
    見よう見まねで、生まれて始めて投げた“砲丸投げ”で・・・2位入賞!
    続いて投げた円盤投げは指定巾に入らず・・・失格!
    ・・・回転して投げるのは技術が必要だった
    “トヨタ”にも思い出が深い
    工場もまだ上挙母しかなく、高岡工場はもっと後だったし、豊田市内はほとんどのどかな田園風景だった
    当時のトヨタは“パブリカ”と言う空冷800ccの乗用車を発売し、日産のサニーとトヨタのカローラが爆発的に売れ出す直前だった
    メンバーに選ばれ、トヨタの大番頭“石田退三”さんからも、直々に講演を頂き感動した記憶・・・小柄だが・肌もつやつやで・いかにも健康そうで・声の大きい・元気な人だった
    トヨタの社員さんからも非常に貴重な体験をさせて貰った
    ・・・“ブレーンストーミング”
    “ここにあるゼミクリップからどんな商品を思い付きますか?・・・5分以内に10個考えて下さい”
    と言う様な身近な問題をスタートに“議論を活性化”する手法だったが、新鮮な体験に心が躍った
    多分トヨタも急激に拡大する中、
    プロジェクトチームを束ねる自由闊達な議論手法を勉強していたのだと思う
    ・・・トヨタと言う会社の奥の深さのホンノ一部を垣間見た気がした
    ・・・・・・・・・・
    それにしても、学校で受験用授業を受けなかった私には、受験のハードルは高かった・・・1年で乗り越えられたのは・・・退路が無かったせいだと思う・・・
    ・・・・・・・・・・
    しかし全て・・・半世紀前の出来事だ・・・
    当時の先生にお会い出来るのなら・・・会って見たいが・・・当時の年齢差が20としても皆80才後半かも・・・
    午前中、県内企業訪問・・・設計完了前の最終打合せ
    諸問題も、社長さん自ら動いて頂いたお陰で・・・無事解決・・・さすがは社長!
    プランも外観もインテリアも全て承認頂き、
    6月第1週設計UPへスパート!・・・年内竣工出来るだろう!

    2010年5月14日 (金) 7:56

田村プロフィール

■経歴 ・昭和47年
名古屋大学建築学科卒業後、恩師の平子勝設計に勤務
・昭和52年
恩師死去による勤務先閉鎖により、個人事務所として独立する。
・平成2年
法人化。バブルの崩壊をいち早く察知し試行錯誤の末、 業種をアミューズメント業界、
中でもパチンコ業に特化し、今日に至る
・平成6年
東京支所開設
・平成7年
ミラノにイタリア人3名雇い、デザインルーム開設
■趣味 出張先でおいしいものを探すこと
■好きな街 ・ミラノ
60才からはここに一年の半分は住みたい
・ニューヨーク
ここへも住みたい。元気になりそう
・名古屋
早足で歩いても人にぶつからない、ストレスの溜まらないイイ街だ
・常滑
恵まれた自然が生んだのか古くから多くの偉人が輩出している。
トヨタの大番頭の石田退三、ソニーの盛田、哲学者の谷川徹三、
東京電力の平岩外四、中野良子、ザ・ピーナツ、(タムラカズオ?)
そして 日本4大古窯の常滑焼き。
魚もおいしいイイ街です。ただ国際空港が出来るのが少し残念。
■特技 純粋に相手の立場に立てる。しかし熱すぎて少し嫌がられること多し
■苦手な事 IT、営業、カラオケ、パチンコ
■一言 すごい時代になったとつくづく思う。 自分の思い・メッセージを世界中、日本中に発信できるなんて夢のようです。 少しでも多くの方と出会い、ITの可能性を存分に試したいと思います。

設計観

建築設計の本質とは、建物と言うハードを通じて家庭の幸せや、 企業の繁栄といったソフトを創造する職業と思っている。そして一作ずつ愛情と情熱を込めて創る。 その思い入れが建物と言うハードに血を通わせることが出来ると信じている。 また日々力量を磨き、自分たちの作品が社会的価値や文化的価値へと 昇華していくことが出来たらとても幸せだと思う。

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